『パリジャンと思って結婚したら、ただの貧乏なオタクでした』というブログ本があるといふ。
「学者だと思って結婚したら、ただの古本オタクでした」
「司書だと思って結婚したら、ただの古本オタクでした」
などという本も成立するのではないかと、畏友・神保町のオタが言っていた(σ^〜^)
まぁ古本オタクの概念規定が問題ではあるのだが…
古本オタクは原始「愛書家」だった
この「古本オタク」というのは、近年になって登場した「古本者」という言葉はほぼ同じ概念とみてよいだらう。古本者は1980年代に成立した「SF者」から派生したとはてなキーワードにあるから、古本者も近年、おそらく1990年代末か2000年代の言葉であらう。以前は長きにわたって(おそらく1980年代まで)「愛書家(bibliophile)」といった言葉が古本ずきの言い換え語になっていた。実際、古本屋と古本をめぐって対談するのは、古本者ではなく「愛書家」だったのである。(例.勝本清一郎 ; 八木敏夫「愛書家と古本屋対談-1-明治文学資料の今昔(対談)」『日本古書通信』18(2) [1953.1] p.6〜11)
古本オタクはいま「古本者」である
「古本(ふるほん)」という概念は、じつはかなり難しい概念であって、古い本、という意味では実はない。では何なの?といへば、second-handed(セコハン)、つまり古物であって、本としての物理的特性はほどんどかわらないのに、いったん所有権が消費(?)者に移ったものが、再度、再流通業者(古本屋という)に戻ってはじめて「古本」という。つまり、フルホンとは古い本ではないのである。「古本」を古い本の意味でつかう場合には、これは古典籍類にしか使わないけれど「コホン」と読む。
このように、古本というのは流通なくしては成立しない概念である。だから、古本屋、という概念は成立しても、古本者とか古本オタクという概念は成立しづらくて、それは一般的(?)読書ずき、美本ずきの「愛書家」という概念に回収されてしまっていたのである。
しかるに、ここへ来て、「愛書家」に回収されない概念として古本者などがでてきたのはなぜであらうか。
いいかえると新刊をあへて入れない概念としての古本愛好家という概念がなぜ必要なのか。
それには、古本の機能、とそれに対応する古本者の2つの指向性を考える必要があると思ふ。
古本の2つの機能
ひとつは、情報としての古本。手段・言説の容れモノとしての古本。
もうひとつは、美術品としての古本。目的・美としての古本といふところ。
もちろん古本モノの同一人格のなかに、この二つへの指向は多少の比率で併存したりもする。たとえば情報としての古本を求めていても、じゃあそれが参照しづらい形式や通読しづらい形式でいいのか、といえば、そうではないし。美として、触感としての古本を求める人も、読めない本であれば、それは困るだろう。
現在のごとく、情報としての古本が、google bookとか、電子図書館(日本でいへば、近代デジテるりぶれり。しかしあのインターフェイスの悪さは犯罪並み)があるから、機能としての古本の役割は絶対的なものではなくなってきた。ここ10年来の古本価格の下落はそれを反映しているだろうけど、一部の古本はそれでも1円(Amazon負けプレブス価格)にならないのは、美としての古本だったり、機能性がまだ残っている本だったりするからであらう。